2015年10月16日~26日 河西回廊への旅
参加者  範子・竹本・佐藤

1016()   成田16:55発(MU522) 上海経由  西安23:45着   ホテル24:20着

以前から敦煌の石窟壁画を見たいと思っていて、今回、思い切ってユーラシア旅行社のツアーに3人で参加した。中国へは初めての旅である。

 中国東方航空にて16:55成田出発。上海浦東空港19:10到着(時差1時間)。上海空港で入国審査を受けて、2時間後に同じ飛行機に乗った。
 飛行機を降りて入国審査場まで、何百人ものすごい人の行列にビックリした。大混雑。入国審査の窓口が3つしかないので時間がかかって大変だ。
 上海21:15発。  機内で軽食に出たパンと成田で買ったオニギリを食べた。パンは無添加風丸パンでおいしい。 西安23:30到着。
 バスで近くのホテルに向かう。もう夜中の12時を過ぎている。疲れた。シャワーも浴びず早々に寝る。

1017()   西安11:55発(MU2215) 敦煌14:30    西千仏洞1540 ⇒ 鳴沙山・月牙泉1710 ⇒ 敦煌賓館

モーニングコール8:00 出発9:30 天気晴れ 気温24℃~4℃
昨夜が遅かったので朝はゆっくりだ。一階のレストランに朝食を食べに行く。
バイキング形式でジュース、お粥、種々の野菜、卵、コーヒー、フルーツをたっぷり食べる。お粥がおいしくてうれしい。

午前中、西安空港から敦煌まで飛行機で行く。

搭乗口で1時間のフリータイムがあったので、3人でコーヒーを飲みに行く。デミタスコーヒー20元。中国ではコーヒーはまだ一般化されていないらしい。お茶の2倍の値段だ。
今日は土曜日なので中国人観光客が多い。 若い子のファッショナブルなことに驚く。

西安空港11:55発。敦煌まで2時間半の旅。窓から雪を抱く祁連山脈がきれいに見えた。樹木一つない砂漠地帯だ。
山脈の北側に伸びるオアシス、西安から敦煌まで続く河西回廊は全長1700kmもある。
漢の武帝が開拓して以来、西域への重要な交通路として時代とともに発展してきた。
今回の旅は河西回廊の歴史的遺跡を九日間かけてバスで周る、という贅沢な旅である。

 
                  西安空港  
 

敦煌空港14:30
空港は砂漠の中にぽつんと造られている。周囲の木々はすっかり紅葉して秋の景色。青空に映えて美しい。
そのまま敦煌市の西南35キロにある西千仏洞へとむかう。

15:40 西千仏洞到着。 駐車場から階段を下りて石窟寺院に入る。

西千仏洞は莫高窟、楡林窟とともに敦煌三大石窟といわれる。
敦煌市と陽関との中間にあり古くから宿泊地として使われた地で、莫高窟と同様の規模の石窟がつくられたらしい。
しかし党河の急流で破壊され、現在残っているのは22窟のみだが、隋以前の窟が7窟もあり貴重な遺跡として重要視されている。
研究員が一つ一つ鍵を開けて窟の説明をしてくれた。窟内は撮影禁止。( 掲載写真はすべて印刷物より)

まず3-4窟に入る。4窟の奥が3窟になっている。ともに盛唐時代の壁画が美しい。
4窟の菩薩と弟子の壁画は修復されることなくきれいに残っていた。
3窟は釈迦説法図 れんげ紋の天井が実にカラフルだった。

 
  西千仏洞                           
     
  第3窟 説法図(盛唐)   第4窟南壁 菩薩(盛唐)    第5窟中心柱正面 倚座仏(北魏)    第5窟中心柱西 菩薩と飛天(北魏)  
       
  第5窟後壁 天宮技楽と千仏(北魏)   第6窟後壁 釈迦説法図(北周)   第7窟中心柱正面 釈迦説法図(北周)   

5窟は最も古く北魏時代のもの。中央龕の仏はクビがないがどっしりした倚座仏。壁画は顔料が剥げて菩薩も飛天も下絵の太い線が目立つが青色だけはきれいに残っている。
周囲の壁は千仏像。色が黒く鼻が高いインド人を表しているそうだ。ともに素朴な趣がいい。

6窟は北魏北周時代のもの。涅槃仏、千仏、下に供養者像が描かれている。天井下の飛天はスピード感あふれ、男性的でおもしろかった。

7窟は北魏北周から初唐まで様々な時代の物が混在している。中心柱の像は西魏時代のもの、ただし顔は後代の修復。柱の後ろに西夏時代の涅槃図が描かれていて、嘆き悲しむ弟子は表情が豊か。前壁の釈迦説法図下に供養者の像が描かれているのも興味深かった。これは初唐のものだとか。

西千仏洞の見学を終えて、バスに乗り、鳴沙山に向かう。

何もない砂漠の中、一直線に伸びる舗装道路を快適に走り、17:10鳴沙山(メイサザン)到着。 黄色く紅葉した木々が殊のほか美しい。
鳴沙山は”月の砂漠“のイメージそのままの景色が広がる 広大な砂丘地帯である。
広さは東西20km南北20kmもあるそうだ。
風がふくと音を立てるので鳴沙山の名前がついたという。

人気のある観光地らしく大勢の人で賑わっている。
砂山を歩くのに赤いオーバーシューズを借りた(15元)。
傾きかけた夕日に砂山の陰影が映えて幻想的で、
いまにもラクダに乗ったお姫様が出てきそう。
頂上まで登っている人も大勢いて、ソリで滑り降りて遊んでいる人もみえる。

丘の上まで登りたかったが、まだまだ膝が調子悪いので断念。
竹本さんと月牙泉を周る。

 
              鳴沙山        
       
  月牙泉   月牙泉から見る鳴沙山   帰りはラクダに乗って  

月牙泉(ゲッカセン)は鳴沙山の麓にあるオアシスで、2000年前から枯れることなく水が湧き出ている神秘の泉である。
三日月(月牙)形をしていることから月牙泉と呼ばれているそうだ。
砂漠を背景にした水辺の風景は何とも美しく、不思議で、見飽きなかった。横に建てられた楼閣も効果的に雰囲気を高めている。
少し時間があまったので砂の上に座り込んで砂丘を目で楽しんでから帰る。
帰りは観光用の駱駝に乗る。ゴビ砂漠の駱駝は二瘤ラクダで毛が長い。特に首の長い毛が可愛らしい。瘤の間に座るので安定感があって乗りやすい。

19:20 敦煌市内のレストランで夕食。全員そろっての円卓料理で、自己紹介があった。ツアー総勢17名、男女半々くらい、全国各地からの参加だ。

夕食後ホテルの会議室で莫高窟の研究員 楊先生による特別講義があった。莫高窟の概要・歴史の講義は分りやすく、ありがたく拝聴した。

その後チェックイン。ここに2泊するので洗濯をしてから寝た。

 

1018()   ホテル800 ⇒莫高窟1040 ⇒ 陽関1500 ⇒ 玉関門1810 ⇒ 漢代の万里の長城跡1900
                                                                                           ⇒ 敦煌ホテル
21:30

 

モーニングコール6:30 朝食7:00 出発8:00 天気晴れ 気温24℃~6℃
今日はいよいよ莫高窟の見学だ。まずはデジタルセンターに行って、映像による説明を受ける。真新しい立派な建物だ。日本語のイヤホンで説明を聴きながら円形のパノラマスクリーンの映像を見せてもらった。 ド迫力。  10:30 専用バスにで莫高窟入口に行く。

今日は敦煌市内から莫高窟までの市民マラソン大会が開催されていた。
出発時、ホテル前の道路では記念式典が催され、ピンクの衣装を着た女の子が行列して踊っていたし、莫高窟に行く途中の道路ではランナーたちが走っていて、楽しかった。
窟の見学後は完走した女の子たちが看板の前で記念撮影している光景にも出会ってほほえましかった。

 

莫高窟は敦煌3大石窟の中でも保存状態が良く、現在500余りの石窟に壁画・塑像が残されている。
敦煌の乾燥した気候が幸いしたのと、周囲には漢民族が多く、、仏教信仰が厚かったためだそうだ。
漢の武帝が西の最前線として河西回廊を統治して以来、敦煌は西方の玄関口として重要な地点であった。
タクマラカン砂漠を越えて仏教が中国に伝来したのは2世紀のことであり、4世紀には中国の僧、法顕がインドを訪れ、
西域の僧鳩摩羅什が中国に多くの経典をもたらした。
敦煌周辺に、いくつも石窟寺院が開かれたのも4世紀、前涼の時代である。
石窟寺院は禅観修行の場として町から離れた閑静な河の畔につくられ、窟内部は修行を促すための壁画、塑像
で飾られた。
莫高窟はその代表であり、最も規模が大きく造営年代も長い。 莫高窟は3期に分類される。 
初期は北涼・北周・北魏時代(420~580年)  中期は隋・唐時代(581~906年)
後期は五代・西夏・元時代(907~1367年)。  なかでも最盛期の隋・唐の石窟は90窟もあり充実している。

   
    莫高窟  

11世紀以降、シルクロードは南の新ルートに移り海上交通も発達して、敦煌は衰退していく。 その後、存在すら忘れられていたが、1900年に偶然発見された。

莫高窟は3層に造られ、東西に長々と並んでいる。石窟は一つ一つ木の扉がつくられ、研究員が鍵を開けて中に入り、説明してくれる。内部の撮影は厳禁。
中は暗いので懐中電灯は必須である。第16窟から見始めて全部で9窟を回った。 階段を登ったり下りたり、暑くて、汗かいた。

 
 

 328窟 (盛唐) 
 釈迦像は唐の王の姿をしている。
 阿南は少年の姿、
 脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩。
 天井は枡型。壁画は西夏のもの。

 

第17窟北壁の壇(高僧洪べん像) 晩唐

   

16・17窟 (晩唐)  17窟は有名な蔵経洞であり、1900年に発見された。窟室はその奥にあり、北壁に方壇を設け高僧洪べん和尚の像を安置する。壁画は西夏時代の物である。

   
  第328窟 釈迦像 盛唐 第328窟 供養菩薩像 盛唐
 
     

329窟 (初唐) 
 正面龕の七尊像は後世の改修が良くないが、
 格天井は意匠が素晴らしく、極彩色。
 4色の蓮華文の間を飛ぶ飛天、
 周囲の垂飾文と12人の飛天、
 その下の千仏も美しい。

 南北の壁の阿弥陀仏浄土変と弥勒浄土経変は
 ラピスラズリの色がよく残っている。
 また、東壁にみられる供養者像は
 唐代の衣装をつけた美人で魅力的。

 

 
第329窟 東壁 供養者像 初唐 第329窟 格天井 初唐  
 
第45窟 西壁大龕 盛唐 第45窟 北壁 法華経普門編 盛唐   

45窟 (盛唐) 
 西壁大龕には八角座の如来を中心に
 二羅漢・二菩薩・二天王の諸像がある。
 女性的な面持ち、豊満かつ端正な姿は
 盛唐様式の典型で美しい。北壁は法華経普門編の壁画。
 樹木を背景に優美な観音菩薩が中央に大きく描かれ、
 観音菩薩の変幻自在の図の下、
 八難救済の図は当時の生活が見えておもしろい。

57窟 (初唐) 
 西壁の複式龕に本尊座像と二比丘四菩薩を置く。
 周囲の千仏はロシア人が焚火をしたため黒ずんでいる。
 南壁の樹下説法図は唐代の中でも秀逸で、
 特に右脇侍菩薩は美人菩薩として名高い。

 
        第45窟 西壁大龕 菩薩    第45窟 西壁大龕 阿南   第45窟 西壁大龕 天王    
 
  第57窟 西壁龕内 釈迦如来と菩薩 初唐     第57窟 南壁 樹下説法図 第57窟 南壁 樹下説法図脇侍菩薩 
     
  第259窟 二仏座像 北魏   第249窟 格天井 西魏    
 

259窟 (北涼)  
 最古の石窟。狭く天井は中国式切妻屋根で中心柱は壁と繋がっている。
 本尊は釈迦と多宝仏の二仏並座像。
 高い肉鬢、肩幅の広い堂々とした体、陰刻紋のある隆起した衣はアフガニスタンの影響とか。

249窟 (西魏)  
 伏斗(フクト)形方窟は唐代の主流であるが、この窟は最も早い時期につくられた。
 窟頂の格子天井は下に山をめぐらせて人間界を表し、その上を天空に見立てて仏教以外に
 中国古来の神々が描かれている。
 正面中央に須弥山が聳え、アシュラ神がそれを支え、
 その周りを竜王・雷神、風神、朱雀、飛天が飛び交う。

48窟 (盛唐)  
 釈迦涅槃像を収めた長大な窟。台座の上に横たわる涅槃仏は長さ15mもある。
 後ろに72体の弟子像が並び、かまぼこ形の天井は千仏で覆われている。

 
  第148窟 涅槃仏 盛唐  
 

96窟 (盛唐)  敦煌最大の窟。
 高さ35.6mの巨大な大仏が則天武后の695年につくられ、
 北大像と呼ばれて莫高窟の象徴になっている。
 ただ、1935年までたびたび修復され、往時の面影がうすい。
 顔と胸部分に明り取りの窓がある。
 狭い窟内で見上げると鼻の穴しか分らなかった。

今日はマラソン大会の交通規制のせいか、ゆっくり拝観できた、とガイドさんは云う。1日3000人の入 場制限をしているそうだが、普段は大変な人ごみで待ち時間も多いらしい。

13:00、見学を終わって広場に出ると、マラソンを走り終わった人々で賑わっていた。皆元気で楽しそう。
莫高窟の象徴、第96窟の前でツアー参加者全員の記念撮影をした。

 
  第96窟  第96窟 大仏 盛唐              
 

市内に戻り、レストランで昼食となる。昨日と同じ野菜中心の円卓料理だがキャベツや空芯菜の炒め物が異様においしい。

15:00 陽関に行く。
一帯は葡萄の産地で干しぶどうが盛んにつくられていた。今年は気候がおかしかったので乾燥室を 使わず直接日干ししているのだとか。ゴビの真っただ中に葡萄を広げていた。

陽関(ヨウカン)は敦煌市の南西70kmにある漢代の関所である。玉関門とともに漢の武帝により築かれた軍事基地であり西域交通の 起点でもあった。
日干し煉瓦で造られた施設はすべて大洪水で失われ、現在は燈火台が残っているのみだ。 漢代には陽関と玉関門との間に、5kmごとに燈火台が置かれていたそうだ。

2004年、当時の関所を模した陽関博物館が造られた。城門を入ると広場には漢代の英雄、霍去病(カクキョヘイ)の大きな像が建っていた。
漢代の兵舎や武 器の模型も展示されているが、広大な敷地に少々散漫な展示。
陽関は唐の詩人 王維の、旅立つ友人を送るうたによって有名 なのだそうだ。 大きな王維の像が建っていた。
“渭城の朝雨 軽塵を潤す 客舎青々柳色新たなり 君に勧む 更に尽くせ一杯の酒 西の方 陽関を出づれば 故人無からん"

カートに乗って丘を登ると砂漠のただ中に燈火台の遺跡がポツンと建っている。柵が張られ近寄れないが、かなり風化している。
屋根付きの見晴台から地平線まで広がる タクマラ カン砂漠 の風景に見惚れる。遠くに喜連山脈がうっすらと見えて、絶景!。

       
  陽関博物館の入口   陽関 燈火台   タクマラ カン砂漠  
 

17:00玉関門へと出発。  再びゴビ砂漠の中の簡易舗装道路を1時間走り、18:10 玉関門遺跡到着。

玉関門は西域に通じるシルクロードの北道と中道に行く関所。漢の武帝のころ、河西回廊を保護するために万里の長城が 築造され、その西端に設けられた。
敦煌の北西100kmにある。俗称は小方盤城。
当時、西安から敦煌まで行くのに駱駝 に乗って2-3か月かかったそうだ。 隋・唐時代に玉関門は安西の東に移動した。

駐車場からラクダ草の茂る砂漠の中を歩く “春風もわたらず玉関門”と詩にも唄われた荒涼たる景色がひろがり、遺跡が夕日に映える。
遺跡は土で造られた外壁のみだが、内部は意外に大きい。 北門から覗く砂漠風景も感慨深かった。
北側の小高い見晴台から北方を見晴らす。オアシスらしく池が二つ三つ遠くに光って見える 近辺には野生の駱駝や馬、ロバが生息しているらしい。

 
     

 
 

陽関

  陽関内部   漢代の万里の長城跡  
 

19:00 漢代の万里の長城跡へ行く。
この長城は漢の武帝の頃、西域の脅威であった「匈奴」の侵略から領土を守るために築かれた。 延長は150kmと言われている。高さは3m、幅は狭い。
砂に埋もれてとぎれとぎれに続いている長城は、外壁が残っていないので、砂利と草を交互に重ねて造られている構造がよく分る。

長城を背に夕日が沈んでいく  遠くに燈火台が見える  三日月が空に輝いている  幻想的風景だ。

20:30 市内のレストランで夕食。地元で人気だというロバ肉ラーメンを食べた
その後、近くの夜市に出かける。 屋台がたくさん出て賑わっていた。
敦煌名産のドライフルーツ、マスコットのひょうたん、陶器、夜光杯、数珠、飾り皿、スカーフ、玉石、etc いろんなものを売っていて、楽しかった。

 

10月19日(月)  敦煌8:00 ⇒ 楡林窟(ユリンクツ)10:50 ⇒ 東千仏洞16:20 ⇒  破城子(ハジョウシ)19:00 ⇒ 瓜州(カシュウ)19:40

 

モーニングコール6:30 朝食7:00 出発8:00 天気晴れ 気温24℃~3℃
8:00出発。 9:10 高速道路のサービスエリアでトイレ休憩。先月できたばかりだという。ピカピカ、きれいなトイレが50以上も並んでいる五つ星トイレだ。
シルクロード経済回復政策の一環として、去年、蘭州からウルムチまで新幹線が開通(21時間が9時間に短縮された) し、今年、高速道路がオープンしたのだそうだ。

 

10:00 給油所で休憩。瓜州は瓜の産地で、道端に瓜を並べて売っている光景があちこちでみられる。
バスが給油する間ハミ瓜を御馳走になる。黄色く細長い瓜で最盛期を過ぎてるとはいえ、みずみずしくおいしかった。
一緒に売っていた瓜のドライフルーツを買った。これは甘いけど癖のある味で、食べ慣れるとやみつきになりそう。

道端に綿の実がたくさん落ちていた。ここは綿の産地でもある。

一帯は地下水が豊富で、畑が多く、ヤギ、ロバ、ラクダの放牧がおこなわれている。

 

バスはタマリスク(紅柳)とラクダ草がまばらに生える砂漠をひたすら走る。
右手に楡林河の流れが見えてきた。      10:50 楡林窟到着。

400万年前、河の氾濫で造られたという深い峡谷の谷底に楡林窟は造られている。
初唐から元代までの間に造られた石窟は両側の崖を利用した上下二層構造で、現在42の石窟が残っている 。
仏教説話だけでなく庶民の生活をモチーフにした壁画も多く、色彩も豊かで、美しい壁画が多いのが特徴といえる。
また、西夏時代に新に造営された石窟が4窟もある貴重な存在でもある。(まだ研究中で、現在は東崖の石窟のみ開放)

駐車場から楡林河の谷底まで階段を下る。結構な急勾配の階段である。
岸辺には名前の由来となった楡の大木が茂っている。
紅葉した秋の景観はのどかで、石窟の掘られた険しい裸崖とは対照的だ。
入口で厳しい荷物チェックがあり、少し大きな荷物は手持ち不可。大きなカメラ、ビデオもダメ、皆ロッカーに入れる。
 
                  楡林河の絶壁         
 

11窟 (清) 
壁画の仏教説話の中に道教の竜王、雷神、風神、雨神、十八羅漢,清代花鳥画等が見られる

12窟 (五代)
東窟の南端にある。後ろの壁画に本尊はなく十大弟子・八大菩薩。南北両壁には梵天・帝釈天・神将等が描かれて、彩色にクジャク石・ラピスラズリが使われている。

15窟 (中唐)
吐番支配の時代。基壇の7体の仏は清代に修復されて顔は金色に塗られている。南北の壁に大きなチッベト風容貌の二天王が描かれ、毘沙門天は上半身裸でバットのような棒を握り、左手にテン(財のシンボル)の首を握っている。
前室天井の笛を持つ飛天が優美。NHKで放映されたらしい。

16窟 (五代)
主室通路に名前のはいった寄進者の像がある。三国時代の曹氏の子孫らしい。夫人は回骨族出身で鳳凰の髪飾りをつけ、額と頬に梅と鳥の装飾を施している。

  谷底の楡林窟まで階段を降りる    
       
  第15窟 前室天井 飛天 盛唐      
          第25窟 西壁北側 文殊菩薩 中唐 文殊第25窟 西壁北側 普賢菩薩 中唐菩薩    
 
 

第25窟 南壁 観無量寿経変 中唐

  第25窟 南壁 観無量寿経変の一部 第25窟 南壁 観無量寿経変の一部     

23窟 (初唐)
天井が崩落。清代に道教神像15体、8仙人の壁画が作り直された。
新しい顔料が使われ色があざやかだ。壁画に入浴、占い、夫婦の夢、
賭け事、悪人、閻魔大王等、庶民の生活が描かれていて興味深い。

25窟 (中唐)
吐番支配の時代。南壁の観無量寿経変と北壁の弥勒経変は緑青を基調にした大画面で美しい。西壁には文殊菩薩と普賢菩薩が描かれている

2窟  (西夏)
西夏時代に造られた数少ない窟の一つ。西壁、門の両側に水月観音が描かれ、右側の図では観音に向かって合掌する三蔵法師と悟空が見られ、早い時期から話が伝承されていたのが分る。天井は雲の中を飛ぶ竜の図。

  第25窟 北壁 弥勒経変 中唐 第25窟 北壁 弥勒経変の一部
 
第2窟 西壁北側 水月観音 西夏 第2窟 南壁 菩薩 西夏 第2窟 天井 団竜 西夏 第6窟 弥勒菩薩 盛唐  
  6窟  (盛唐)
高さ24.7mの大仏。石を芯にして造られている。金色のお顔は清代の彩色。現在修復中で鉄パイプの隙間から覗いた。
手前に布袋さんの像があった、知らなかったが弥勒菩薩のお弟子さんだそうだ。
13:30 楡林窟の見学を終えて、東千仏洞へと出発。途中の町でお昼ご飯を食べる。町の通りは並木が黄色く紅葉して 美しい。
ランチは麺料理。裏で麺を手延べしていた。こねた小麦粉に油を入れて一人前づつ伸ばし麺をたたいて細く伸ば し、ゆがく。上手だ。
円卓に並んだ色々なおかずをうどんの上に乗せて、にんにくやトウガラシ、黒酢を合わせて食べる。
要するに皿うどんだが、つくりたての麺がとてもおいしかった。

15:10 再び砂漠の中を走り、東千仏洞へと行く。途中、車窓に鎖陽城(サヨウジョウ)跡が見えた。
前漢時代に造られた県城 で、城内にあるタール寺院は玄奘三蔵が滞在して説法を行ったことで有名である。

玄奘三蔵法師は初唐、河南省洛陽に生まれた。13歳で出家して、25歳まで各地を巡礼しながら修行に励む。しかし当時は道教が 盛んで仏教経典が少なかったので、
様々な疑問の答えを得るには天竺(インド)へ行って教義の原典に触れるしかないと決心する。
国は鎖国政策をとっていたので国禁を犯して出国せざるをえなかったが、タクマラカン砂漠を歩き、天山山脈を越え、パミール高原を行き、3年後にインドの仏教大学ナーランダに到着する。インドの高僧に教えを受け、様々な経典を学び、インドでも高僧として認められながら、44歳の時再び中国に戻る。
皇帝の庇 護を受けて長安の寺院で多くの経典を翻訳し、唐代の仏教興隆の基礎を築いた。なかでも大般若経600巻は般若心経の基となり、今日でも仏教経典の中心にある。

 東千仏洞は敦煌から210キロの辺境の地にある。古い河川の両岸の深い崖に造られた石窟で、1982年に発見された 。
もと は23窟あったが現在は8窟が残っている。主に西夏時代に建立された謎の多い、希少価値のある石窟である。
先月、東千仏洞まで立派な舗装道路が開通して訪れやすくなったが、依然はガタガタ道で大変だったらしい。

出来立ての 立派な入場県売り場でトイレ休憩。16:20東千仏洞到着。
荒涼たる風景が広がる。川床は干上がり瓦礫の丘陵にはラクダ草がまば らに生えるのみ。階段や坂道を登って2窟、5窟、6窟、7窟を見学した。

 
東千仏洞 全景 第2窟 左壁 玄奘取経図

2 (西夏)
 入口天井は鳳凰。側壁に水月観音の図があり、左壁に経典を受け取る三蔵法師とお供の猿が見える。
水月観音とは中国仏教三十三観音の一つで、水辺の岩に座って水面の月を眺めている観音。中唐の画家によって創作され以降 仏教画の重要な題材となった。
また、三蔵法師は瓜州に滞在して馬と案内人を手配した事から、偉大な僧として好んで描 かれた。
反対側にはミニスカートのかわいい観音が見られる。後壁は密教のシンボルである多面観 (腕は8本)と青い顔の緑渡姆(チベット公 主)と白渡姆(ネパール公主)。
5窟 (西夏)
 庶民が造った石窟で小さい。左右壁は白象に乗った普賢菩薩と獅子に乗った文殊菩薩。隣に白渡姆と緑渡姆。 西夏文字が見える。西夏はチベット系タングート族が統治した国。1038年から1227年まで続き、独特の文字を使用した。 龕の側壁は曼荼羅図。柱の裏は涅槃像。周囲の悲しむ弟子たちが表情豊かに描かれている。
7 (西夏) 
 像の両側に飛天が飛んでいる。右壁に宝石で飾られた美しい菩薩が描かれ、龕の後ろの天井は蛍光緑を使い光っている。

画工は町から一か月分の食糧としてナンを持参して働いた、という。過酷な仕事だ、信心が深くなければ出来なかったの ではないかと思う。

観終わって、管理人夫妻の住む小屋の庭で休憩し、 再び入場券売り場に戻ってトイレに行く。
瓜州は鎖陽(サヨウ)という滋養強壮の漢方薬の産地として有名なそうだ。干した木の根としか見えないが、高価なものらしい。煎じたお茶を試飲してみたけど、ま、くせなく飲みやすい。

19:05 破城子(ハジョウシ)到着。 小ぶりな城壁都市の遺構である。
東西約150m、南北約250mの城壁が、ほぼ丸ごと残っている。
漢代に建てられ、唐代には玉関門だったのかもしれないという。

日が暮れてきた。早々に引き揚げて、ホテルに向かう。
瓜州のホテルは市役所の向かいにある融金州海大酒店ホテル

19:40 ホテル到着。すぐに食事となる。
昼と夜の食事は円卓を囲んだ中華料理で、野菜の炒め物を中心にスープ、饅頭、白米、麺が定番である。
青菜、千切りジャガイモ、キャベツの炒めもの、トマトの煎り卵和え、五目煮、等々。
ほとんで同じメニューだけれど、ヘルシーでおいしく飽きない。食欲満点。

 
破城子  

1020()  瓜州820 ⇒ 嘉峪関(カヨクカン)1300 ⇒ 魏晋壁画墓1530 ⇒ 
                                         酒泉鐘鼓楼1710⇒ 酒泉公園1730 ⇒ 酒泉ホテル1830

モーニングコール6:30 朝食7:20 出発8:15 天気晴れ後曇り 気温7℃~1℃
今日は酒泉まで260kmのバス移動である。 瓜州は標高が高く、風が強くて寒い。

今年出来たばかりの高速道路を走る。この高速道路は上海から新疆まで続いているそうで、大型トラックが沢山走っている。西方活性化政策の効果は大きいみたいだ。
瓜州は風の名所、とあって風力発電機が何もないゴビの大平原にたくさん並んでいた。
畑には防風林が植えられている。風は東西に吹くので南北は素通しで徹底している。

 
  遠くに祁連山脈(キレン)が美しく見える。
河西回廊の南に連なるこの山脈は長さ2000km、平均海抜4000m、河川回廊の水源となっている。

付近一帯はゴビの砂漠、4%が農地として開墾されて、綿花、葡萄、とうもろこし等が栽培されている。
ゴビとは本来草木の生えない地というチベット語で、礫だらけの荒地の事だとか。

夏の最高気温は40℃を越え、冬の最低気温は-25℃にもなるそうだ。一日の温度差も20℃と激しい。降水量は50mm。
近年、砂漠化が問題視されているが、確かに春の黄砂は年々ひどくなっている気がする。
  瓜州の風力発電地帯 祁連山脈

11:30 嘉峪関市内の大きなレストランで昼食。ここは鉄鋼コンビナートを中心に造られた新しい町で人口18万人のうち5万人が工場社員だという。一帯は石油、石炭、鉄の資源が豊富な地域である。 豚肉を饅頭にはさんで食べる中国のハンバーガーみたいなものが出た。柔らかくておいしい豚肉の料理の仕方に敬服する。

 
 

   

13:00 嘉峪関到着。

嘉峪関
は明の時代1372年に造られた関所である。
全長6300kmの万里長城の最西端を守る砦として、
河西回廊の一番幅の狭い場所に造られた。
南北両方向に万里長城と繋がっている。

城は城壁と外城と内城の三重構造で、難攻不落の作りになっている。関所としてだけでなく、当時、外城は飲み屋や風呂屋もある宿場として賑わっていたそうである。

万里の長城に繋がる関の中で、建築当時のまま残っている唯一の建造物であり、ユネスコ世界遺産の指定を受けているが、あまりに修復が行き届きすぎていて、古城というよりはテーマパークみたいな印象だった。

外城東門から入り、内城に入る前にトイレに行く。
これは豪勢な造りで、障碍者用トイレやTVのある休憩室があり、手洗い水からはお湯が出た 。
入口に四星マークがついている。(4-5年前から星マークをつけるようになったそうだ) でも紙はない。

  嘉峪関 東閘門(左)烽火台(右)   嘉峪関から延びる万里長城  
     
  会極門楼   城壁から内陣を望む  

内城は東西にそれぞれ楼閣(門楼)と甕城を持つ城門を備え、東を光化門、西を柔遠門という。西門には「嘉峪関」の扁額がかかっている。城壁の隅角部には櫓が設けられている。

2つの門の北側には関の最上部に上ることが出来る通路があった。急な階段を登って最上部から楼閣を近くに見て、周囲のゴビの景色、長く伸びる長城、を眺める。
嘉峪関門を一旦出てから再び元に戻る。
駐車場の手前で焼き芋を売っていた。大きなお芋を一つ買って角田さんと4人で分けて食べながらバスに急ぐ。 おいしかったあー。

15:30 魏晋壁画墓到着。

魏晋壁画墓は嘉峪関市の東北20kmにある古墳群である。1970年に発見された。
魏晋時代のレンガ造りの墓が18基発掘され、そのうちの9基に壁画が描かれていた。全体では100基くらいあるという。画材は宗教的なものはなく、生活に密着したもので、見ていてほほえましく楽しい。現在は6番のみが見学可能だ。

平原の中にぽつんと家が一軒建っていてそこが墓室への入口だった。 深さ10m、墓道は狭くて低くてかがみながら歩く。
前室・中室・後室の3室からなる夫婦合葬墓で、焼きレンガを縦横に積み重ねて造られてある。
前室の壁画は農耕、狩猟、料理等少数民族の生活図、中室は裕福な生活用具財産、墓主夫婦の生活図、
後室にはお棺が置かれていた。
前室の天井から油ランプを入れ空気が無くなるまで火を灯して密閉したそうだ。

 
魏晋壁画墓の墓室  
       
  魏晋壁画墓 レンガに描かれた壁画                  
         

17:00 酒泉市内に入る。                                                   
バスを降りて、町の中心たる鐘鼓楼の周りを周って歩く。
酒泉の鐘鼓楼は4世紀、前涼の時代に造られ、清代に再建された。
十字街の中心に位置し、土台は東西南北に向けての交差路になっていて,その上に3層の屋根がある。
屋根にはそれぞれ方角を表す四字熟語が刻まれている。
「東は華巌を迎え、南は祁連(キレン)を望む。西は伊吾(ハミ)に達し,北は沙漠に通ず」
 この門額はここがシルクロードの重要な基点であり、四方へ通ずる門であった事を意味する。

次に、市から2キロ東にある酒泉公園へ行く。
ここは古典庭園、観光施設が整備された総合公園で、市民の憩いの場となっている。
園内に酒泉の名の由来となった伝説の泉がある。
漢の武帝(紀元前156~紀元前87年)の時代、匈奴討伐で大勝利をあげた武将・霍去病(カクキョヘイ)が褒美として武帝から酒を下賜されたが、兵士全員に行き渡らないため、酒を泉に注いだところ水が美酒に変じて、全員がこれを飲んで戦勝を祝ったという。霍去病は河西回廊の恩人であり、今だに人気の高い英雄である。
水は枯れることなくいまも湧き出ている。清んだきれいな水だった。

18:30 酒泉市の世紀大酒泉店ホテルに到着。 ホテルのレストランで食事。

 
     
  酒泉の鐘鼓楼    

1021()  酒泉810 ⇒ 七彩山1220 ⇒ 黒水国城堡遺跡1610 ⇒  大仏寺1710 ⇒ 張掖市内ホテル1940

モーニングコール6:30 朝食7:15 出発8:00 天気曇り 気温14℃~4℃    寒い。スパッツとダウンを着こむ。
朝食でとうもろこし粥に梅干しを入れたらおいしかった。 ホテルのロビーに金魚の水槽があって目をひく。
ホテル前は市役所で、その大広場に運動に来る人が大勢いる。広場踊りが流行っていて、リズミカルな音楽にあわせて自由に踊るグループがいくつも出現するそうだ。
音楽がうるさい、という人もいるらしいが。

8:10 ホテルを出発して高速道路を七彩山へ向かう。
酒泉から喜連山脈の下、豊かな農耕地が続く。とうもろこしの刈り入れ時らしく、畑に広げて干している。

バスの中で許さんから簡単な中国語を教えてもらったりして、3時間の行程もまたたくまに過ぎる。
途中で新幹線を 2度も見た。ウルムチ~蘭州間を9時間で走るそうだ(普通だと21時間)。西寧からラサ行きに接続するため、武威は通らない、という。

11:00 七彩山入り口に到着。昼食のレストランに行くが、早すぎて準備が出来ていない。30分ほど待たされた。
道端で果物を売って居たので覗いてみる。おじさんから苹果梨(リンゴナシ)を4つ買った(3元)。

七彩山の正式名は『張掖丹霞国家地質公園』。
張掖丹霞地貌(ちょうえきたんかちぼう)と呼ばれる、約510平方キロメートルにも及ぶ広大なカルスト地形の一部である。
丹霞地貌(丹霞地形)とは、大部分が白亜紀(約1億年前)の赤色砂岩と礫岩によってできた地層がむき出しになった地形のこと。
ちなみに丹とは赤の意味、霞のように赤く染まった地形、位の意味か。
酸化現象が何度も繰り返されて赤、紫、オレンジ、緑、灰色などの様々な色の山肌が現れ、風化浸食作用によって多くの奇岩が生まれたそうだ。
祁連山脈の北側の分脈にあり、平均標高2300m。2002年に発見されて2008年から一般公開された新しい観光地だ。
中国にはいくつか丹霞地貌があるが、七彩山が一番美しいとの評判である。

 
 
 

効率よく見学できるように四か所の展望台が設けられていて、各展望台の間は循環バスが走っている。
12:30~14:30 2時間にわたって七彩山の景観を堪能した。あっけにとられるような景色が次から次へと広がる。
朝から曇り空で七色に光り輝く山容は望めなさそう、残念、と思ってたら最後に天の恵みか太陽が顔を出した。
光の具合で山の色は様変わり。きれいだった。
しかし、広告にあるような強烈な色は夕焼けの特殊な条件下での事か、さもなければ画像加工のやりすぎか、だと思う。

次に張掖郊外にある黒水国城堡遺跡(コクスイコクジョウホイセキ)へ行く。16:10到着。

 

村はずれ、畑の中に突如として小高い土塀が現れた。それが東西250m南北220mの古城跡だった。
昔、ここには黒河(黒水)が流れ、BC200年頃には匈奴が暮らしていたし、小月氏も暮していた。
ここはシルクロード交易の中継地点であり、BC110年頃には前漢の都でもあった。
周囲には墳墓も多く、レンガ、陶器、五銖銭が多く発見されたので有名なのだそうだ。
今は、城壁のみが崩れかけて残っているだけだが、悠久の2000年を思い、感慨深かった。

地面に陶片が散らばっている。前漢時代のものだろうか?
疑問に思いながら、みんなで宝物探しをして陶片を拾った。

17:00 張掖市内に入る。町外れは新築ラッシュだ。
張掖は肥沃な土地に恵まれ酒泉とともに河西回廊の中でも一番豊な都市である。
大通りを少し中に入って、大仏寺に行く。

 
黒水国城堡遺跡  
   
    大仏寺本堂 大仏寺涅槃像  

大仏寺は西夏時代に建てられた。 本堂は横幅48.5m高さ20.2m、王の寺として宮殿に似た作りになっている。
中に34.5mの涅槃像が安置されている。足の長さ5.2m。マルコ・ポールは“金で塗られた巨像“と表現している。
まわりに十大弟子、18羅漢が並び、天井には龍が飛ぶ。皇帝は龍の子孫なので、龍は重要ナモチーフだ。
壁画には物語が作られる以前の西遊記が描かれていて、猪八戒は張掖の婿なので模範的な働き者になっているのがおかしかった。
涅槃像の胎内には膨大な数の経典が埋蔵されていたそうで、現在、その経典は蔵経殿に収められている。
内容的には西夏時代のチベット文字で書かれた書物、チベット仏教の経典、明代の金で書かれた般若心経等である。
蔵経殿の後ろには明代に創建されたチベット仏教の土塔があった。

18:30 市内のレストランで夕食
19:40 張掖のホテル 華辰国際大酒店 到着。

シャワーを浴びて洗濯をして、寝間着に着替えてから、3人集まって苹果梨を食べて話に花が咲く。 22:30寝る。
 

1022()  張掖910 ⇒ 武威 雷台1450 ⇒ 孔子廟1620 ⇒  西夏博物館1650 ⇒ 武威ホテル1720

 
モーニングコール7:30 朝食8:00 出発9:10 天気晴れ 気温16℃~4℃
9:10ホテル出発。車窓にマルコ・ポールの石像を眺めて、万寿寺木塔へ行く。 大仏寺の向かい、運動公園の中にある。
公園には様々な運動具が設置されていて、大勢の人が運動していた。バスケットボールをしているグループもいる。皆さん元気だ。

万寿寺木塔は北周時代の頃に建てられ、各時代に修復が繰り返された。当初の塔は15層だったが清の時代に倒れて、8角9層の塔として再建された。7層までは塔身に煉瓦をつかっているがそのほかは木製で、一本の釘も使わずに組み立てられているという。

 
   
  張掖市内マルコ・ポーロの像 万寿寺木塔  運動公園     

今日は張掖から武威まで240km走る予定だ。高速道路に入り、左右に延々とゴビ砂漠の風景が続く。

11:05 高速道路と明代の万里の長城が交差する地点に来た

いわるる山丹長城で、 道路と並び、突っ切って、
東西に延々と伸びている。のろし台もある。
幅は狭く、高さも北京近辺ほど高くはない。
騎馬戦にはこれで十分だったそうだ。
この最西端は一昨日訪れた嘉峪関だ。

北側にモンゴル高原の山々が連なり、ふもとに延々と伸びる
長城跡を見ながらその壮大さに恐れおののく。

現代では新疆から上海まで天然ガスのパイプが
ゴビ砂漠の地下を通っているそうで、 これもまた壮大なことである。
山丹長城 モンゴル高原に沿って伸びる長城跡

12:00 永昌SAでトイレ休憩。
道路の北側に風力発電の機器が並ぶ一帯があり、ソーラー発電地帯もある。甘粛省は中国の風力発電、ソーラー発電の大半を担っているそうだ。
13:30 武威の町に着く。喜宴楼というレストランで昼食。美味しい食事だった。

 
 

14:50 雷台に行く。
雷台
は明代に雷神を祭るための廟が創建され、
それにちなんで命名された。

1969年、雷神廟が建つ土台の地下から、後漢時代末期の大型のレンガの室墓が発見され、 230点余の出土品が発掘された。
墓の副葬品の中に軍団のミニチュア銅製品があり、
馬踏飛燕(青銅製の奔馬)など多数の宝物が発見された

墓室は煉瓦造りで前室(庭)、中室(客室)、後室(居間)に分かれている。墓主は張という後漢の将軍らしい。
「馬踏飛燕」は天駆ける名馬の躍動感あふれる像で、
古代青銅彫刻の名品といわれ、中国観光事業のシンボルマークになっている。

現在、雷台は大きな公園として整備されている。
門を入ると広場でチベット衣装の男女が踊りの練習をしていた

高い台座の上に大きな馬踏飛燕の模型がそびえたち、
その下に馬軍団が並んでいて、少々わざとらしい感じ

狭い墓室の見学をして、雷神廟へ行く。

  雷台の広場  
 
  槐の大木 雷神廟

道教をまつる本堂は後漢の建物を修復した物で趣きがある。 “三星高照”の額がかかっていた。 しかし福禄寿の三神は違和感が強い。
境内のえんじゅの大木に赤い布のお札がいっぱい結んであった。これは仏教でも道教でも同じ習慣なのか・・・

 

16:20 孔子廟に行く。
漢の武帝が四郡を設置した際、旅の安全を祈って四郡の中心地である武威に建てた、由緒ある廟である。

現在の廟は明代1439年に創建された。
甘粛省最大級の孔子廟で、大学受験の時期には合格祈願の人々でにぎわうそうだ。
庭に立派な孔子銅像が建っていた。門は東西にある。

帰りに正面門の前の池にかかる状元橋を渡ってみる。

16:50 西夏博物館に行く。

   
武威の孔子廟   西夏博物館横の市  

西夏博物館は、西夏王国の歴史が展示されている博物館で、中でも西夏文字で書かれた西夏碑は重要。
西夏文字(セイカモジ)は、西夏王朝(1032年~1227年)初代皇帝李元昊(リゲンコウ)の時代に制定された文字で、西夏が元に滅ぼされるまで200年間使われた。
しかし、元は西夏の歴史を残さず、西夏人は多民族に融合されたので、長いこと不明だった。
西夏碑は大雲寺で偶然に発見された。寺院の履歴を裏表おなじ内容で漢語と西夏語で書き記してある石碑で、中国のロゼッタストーンとも呼ばれている。

博物館の横に市がたっていて、ついつい夢中になってしまった。野菜、果物、衣類、眼鏡、絵本まで売っている。
向かいの幼稚園の、門の前にはお迎えの父兄が大勢待っていた。

18:50 昼と同じレストラン喜宴楼で夕食。旅行中に誕生日を迎えた方が二人いて、食事の後で大きなバースデーケーキが登場した。
皆でハッピバースデーの歌を歌ってお祝いした。外見は不気味だったけど、切り分けたケーキを食べてビックり! すごくおいしかった。

20:40 ホテル武威大酒店に帰る。部屋で3人集まって昼間に買った柿を食べた。トロンと甘くておいしい。

 

1023()  武威830 ⇒ 蘭州1310 ⇒ 炳霊寺石窟1730 ⇒ 蘭州ホテル2330

 

モーニングコール6:30 朝食7:00 出発8:00 天気曇り後晴れ 気温20℃~7℃
 蘭州へ出発する前に、ホテルから歩いて鳩摩羅什寺に行く。武威は標高が1000m以上あり、朝は肌寒い。

鳩摩羅什寺は鳩摩羅什(クマラジーヴァ)が武威に仏法を広め、経典を翻訳した功績を称えて後涼時代に建てられた寺である。
寺の塔は武威古城の文明と悠久の歴史のシンボルであり、2500年以上前、シルクロードで東西文化の交流があった証でもある。

鳩摩羅什はキジ国の高僧。後涼軍の俘虜となり、武威で17年間伝教に励む。後秦の王に迎えられて長安に移転して、 70歳まで経典の漢訳に従事した。
中国仏教の恩人である。
現存する鳩摩羅什寺の塔は1934年再建された。八角12層、高さは32m、細長い四角の煉瓦を積み上げて造られている。
堂々たる大きなお寺で、現在も改修されつつある。人間浄土の額がかかる門には真新しい千手観音が並び、画工が壁に絵を描いてる最中だった。

 
     
  鳩摩羅什寺の門   境内   鳩摩羅什寺の塔      

8:30 蘭州へと270kmの旅に出発する。
9:40 4つに分かれた長いトンネルに入る。標高2500m、喜連山脈を横断するトンネルで、これが出来る前は3500m付近の山越えをしなくてはならず、冬は大変だったそうだ。
トンネルから出てもゴビ砂漠は続く。 道中チベット自治区を通過、チベット風家屋が見られる。

12:00 再びトイレ休憩。真新しい高速道路を走り、出来立てのサービスエリアで休憩する。風力発電の風車を運んでいるトラックが何台も止まっていた。
喜連山脈が終わって丘陵地帯に入る。黄土高原とい大きな高原で、きれいに開墾されている。水が少ないので小麦は出来ないが、とうもろこし、蕎麦を栽培しているそうだ。

モンゴル高原方面は裸山が続き、山間に村が点在して、白い壁に赤い屋根の家が見える

 

13:00 蘭州の町に入る。市内を黄河がゆったりと流れている。
蘭州は前漢時代121年、霍去病がここに軍の拠点「金城」を築いたことに始まり、その後蘭州と呼ばれるようになった。
長安から西に向かう旅人たちは、ここで黄河を渡って河西回廊へ入ったわけだ。
現在、蘭州は石炭石油の宝庫で、黄河上流に建設した劉家峡ダムの電力を活用して工業都市として発展している。

昼食は蘭州名物、蘭州ラーメン。汁麺に円卓に並ぶ牛肉と野菜を乗せて、好みでラー油、黒酢で味を整える。
麺料理はやはりありがたい。
蘭州はイスラム教の回族が多く、このレストランではビールが置いてなかった。
 
風力発電の風車を運んでいるトラック 喜連山脈  

その後、甘粛省博物館に行ったら電気工事の為臨時休館していたので、急遽予定変更、炳霊寺石窟に行くことになる。

市内は空港からの地下鉄工事でごったがえしており、ほこりっぽい。 黄河に沿って南西方向、上流に向かって走る。工事用トラックが多い。

16:00頃、ダムの畔にある永靖県という超近代的な町がいきなり出現して、ど肝を抜かれた。まだ建設中である。
トイレ休憩をして、田舎道を延々と走る。
一帯は臨夏回族自治区。回族はアラビアから商人としてシルクロードを来た人々の末裔で、漢民族と融合して生活してきた。イスラム教を信仰し、町にはモスクも見られる。

農村地帯に入る。とうもろこしの栽培がさかんらしく、畑や農家の庭に収穫後のとうもろこしがきれいに積まれていた。

 
17:00 劉家峡ダムのボート乗り場到着。

劉家峡ダムは黄河とその支流の合流点を利用して1967年に造られた水力発電用のダムである 。
水深197m、面積130k㎡。
ダムの建設で道が埋没してしまったので、炳霊寺へはダム湖を船で行かなければならない。
片道1時間、ダム湖から黄河の上流へ、8人乗りの小さな舟で行く。
水は澄んできれい。次第に桂林を思わせる奇岩群が聳え立つ絶景に目を奪われる。
石灰石など溶けやすい岩が風化、水に浸食されて出来たものだそうだ。小積石山という。

18:00 炳霊寺石窟に到着。
曇り空に夕暮れが迫り、薄暗い中を歩く。奇岩が立ち並び、険しい崖が川底に沿って聳えている。

炳霊寺石窟は西秦の時代に開かれ、元代まで(420~800年)造られた石窟寺院で、216窟、塑像は800体ある。
炳霊とはチベット語で10万体の仏と云う意味だそうだ。窟は3段に分かれていて、下寺のみオープンされている。

 
劉家峡ダム  
河床の左岸、2窟から順番に見ていく。暗くて石窟の中は懐中電灯でかろうじて見えるのみだが、素朴な石彫像が多い。
彩色壁画の残っている窟もある。崖の外部に直接掘られた小窟の仏も趣がある。
171窟の摩崖石彫大仏は全長27mの大仏で、炳霊寺石窟の象徴的存在である。橋を渡って対岸から全容を眺める。
すっかり日が暮れてしまった。16窟、北魏の涅槃仏を見て帰路につく。
 
   
  炳霊寺 入口                  
   
  第10窟(唐代)         外壁に彫られた仏像  
   
        第171窟の摩崖石彫大仏 第16窟、北魏の涅槃仏  
18:50 船着き場の船上レストランで夕食。黄河の大きな鯉の姿煮が出た。全然臭くない、淡泊な味だ。
19:50 帰りは暗闇の中をボートに乗ってダム湖を渡る。ちょっと不気味だった。

23:10 蘭州のホテル 錦江陽光酒店 到着。 風呂に入り洗濯して、1:30寝る。
 

1024()  蘭州ホテル1330 ⇒ 甘粛省博物館1420 ⇒ 白塔山ロープウエー1715 
                                            ⇒ 蘭州空港2145発(MU2322便)→ 西安23:00

モーニングコール8:30 朝食8:00 スーパーマーケット行き10:30 出発12:00 天気曇り 気温18℃~5℃
昨日の夜が遅かったので今朝はゆっくり寝てた。  朝食を食べて、またベッドに潜り込む。

10時半、ロビーに集合して近くのショッピングセンターに行った。蘭州は標高1500mもあって寒い。ダウンを着こんで出かける。
1階は専門店街、2-3階はスーパーマーケット。乾燥百合根とジャスミンティーを買った。
スーパーを出る時、レシートチェックが厳しくて、まか不思議な感じだった。

12:00 市内のレストラン 天天漁港にて昼食。鍋料理が出てきた。ここは海鮮料理屋らしく、生けすで蟹、エビ、鯉、貝が泳いでいた。

朝食はバイキング

 

 

 

14:30~16:40 甘粛省(カンシュクショウ)博物館に行く。

まず2Fの 敦煌から蘭州までの文化財 を見る。
雷台でみつかった馬踏飛燕はやはり素晴らしい。
魏晋壁画墓の壁画もあった。
3Fでは甘粛省の古代陶器をみる。
実に実に、中国の文化と歴史の深さを思い知った。

 
馬踏飛燕 騎馬軍団                  
17:15 黄河の畔からロープウエーに乗って白塔山公園に行く。
黄河をまたいで北岸の白塔山麓にある白塔寺まで10分間、ロープウエーに乗って、黄河と蘭州市内の景観を楽しんだ。山を登っている人が何人もいる。山は紅葉がきれい。
白塔寺には行かず、牡丹亭を往復して帰る。
 
   
    黄河と蘭州の町を上から見る 白塔寺  

19:10 空港近くのレストランで夕食。再び黄河の鯉の姿煮が出た。

20:15 蘭州空港到着。21:45発の飛行機で西安に移動する。23:00西安到着。ホテルまで1時間。

24:00 ホテル 西安賓館 到着。

 

1025()  西安ホテル830 ⇒ 陝西省歴史博物館850 ⇒ 大雁塔1120
                       ⇒ 華青池1440 ⇒ 兵馬俑坑博物館1610 ⇒ 秦始皇帝陵1800 ⇒ 西安ホテル2140

 

モーニングコール7:00 朝食7:30 出発8:30 天気小雨 気温20℃~12℃
あいにく天気がよくないが、今日は一日西安の歴史観光である。

西安は西周の時代から1000年の歴史のある古都で、古くは長安と呼ばれていた。13C,明代から洛陽の西の都が安定するように、と西安と改称された。
現在は人口860万人、中国西部最大の大都市である。

まずは陝西省(センセイショウ)歴史博物館に行く。日曜日とあって朝からすごい人出で、館内も満員だった。
入口を入ると兵馬俑の彫像が並んでいる。1階は秦代の文化遺物の展示。 2階第2室は漢代、 第3室は唐代。 美しい唐三彩が色々見られてうれしかった。
土産物コーナーでは唐三彩のミニチュア人形をいっぱい売っていた。

 

11:20 雨の中を大雁塔に行く。

大雁塔(ダイガントウ)は、652年玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために建立した塔で、
唐の皇帝、高宋が復興した大慈恩寺の境内に建っている 。
当初は5層だったが、何回も改装され、煉瓦造り7層の塔になった。高さ64.5m、西安のシンボルである。

大慈恩寺の本堂の金色仏を拝み、大雁塔を周る。
本堂の裏に般若心経の大きな石版が掛かっていた。
裏手には高僧の墓碑が建っている。
このお寺は奈良の薬師寺と親しいらしく、休憩所に親交の写真がいろいろ飾ってあった。

お寺を出て、大きなショッピングモールの中を歩いて、
12:30レストランに行く。
現代的なショッピングモールは天井に映像が映写されど肝をぬかれた。スタバ、ケンタッキー、ハーゲンダッツの店もある。
レストランは日本人の経営する精進料理店。

14:40 西安市の東北30kmにある華青池へ行く。
     少し雨が止んできた。

華青池(カセイチ)は3000年前から湧いている温泉地。
ここに西周以降、各時代に離宮が置かれた。

       
  大慈恩寺の境内」   大雁塔    
     
  華青池   浴室跡  

唐の玄宗皇帝は華青池に宮殿(華青宮)を建てた。 ここは玄宗皇帝と楊貴妃とのロマンスの場としても有名である。
玄宗、楊貴妃が湯あみした豪華な浴場の他に、上級官吏の療養所としての浴室も沢山あった。
今でも43度の温泉が湧いている。(見学の後で温泉水に手をかざして温まってみた)
バスを降りて華青宮の門を入ると大きな池の向こうに華やか宮殿が山を背に建っている。
宮殿から浴室まで唐代の建物がきれいに復元され、まさにテーマパークである。  庭にはなんと半裸身の楊貴妃像が建っていた。

16:10 西安市の東36.5kmにある兵馬俑坑博物館に行く。

西安の兵馬俑は秦の始皇帝の陵墓の周辺に埋葬された遺跡である。兵士、馬などの軍隊だけでなく、始皇帝の生活そのままが副葬されていた。
秦の始皇帝はBC221初めて中国全土を統一して中央集権国家を築き、焚書坑儒(フンショコウジュ)による思想統制、度量衡・文字・貨幣の統一、万里の長城の増築などを行なった。
しかし贅沢と残酷さが災いして、秦朝は長くは続かなかった。
兵馬俑は1974年、井戸を掘っていた農民により偶然発見され、その8000体以上の発掘は20世紀最大の発見と云われている。

 
 
 
  兵馬俑坑博物館 1号館          
       
  兵馬俑坑博物館 3号館           秦の始皇帝の馬車(青銅製)  
    博物館は発掘された順に4館に分かれている。
まずは1号館に入る。長さ230m幅62m、体育館のような大きな建物に6000体の陶俑、陶馬が東を向いて並んでいる。圧巻だ。

編制は前方の主要部隊、左右の側方部隊、後方の防衛部隊の四つに隊に分れている。前方部隊は横3列に並び200体、弓を持ち兜を付けていない。
側方部隊は鎧兜に身を固め、武器を手にした歩兵と騎馬軍団、11本の溝に38列並んでいる。後の半分は発掘途中の状態で保存されている 。
何度も写真で見た光景だが、その壮大さは実際に見てみないと分からない。とにかくすごい。 
 
               

 次に3号館に行く。3号館は小さく兵馬俑の数も少ないが、ここは全軍の指揮をする司令部である。発掘当時、復元中、復元された姿が保存されている。
俑の制作過程をミニチュアで説明しているコーナーがあった。兵馬俑はかなりカラフルなものだったらしい。土産物コーナーでは小さな俑のコピーが所狭しと売られていた。

 次に2号館に行く。2号館は歩兵、騎馬兵、軽車等で混編された軍団で戦車・騎兵用の馬が多数発掘された。現在、発掘当時の姿で保存されている。
別室で、弓を射る兵士、本とそろばんを持つ参謀長、高級軍将、騎馬兵、など修復なしの見事な兵俑の展示を見た。
最後に1978年に発掘された青銅製の馬車を見る。秦の始皇帝が全国巡行の際に使った2台の馬車を、1/2の大きさで造ったもの。
金銀で装飾された精巧かつ豪華なもので、世界的に誇る宝物である。展示されていたのは後ろの馬車で、四頭の馬に曳かせた車箱には楕円の屋根がつき、御者が座っている。
極彩色に彩色され、金銀の装飾品で飾られていたそうだ。

 

18:00 兵馬俑の見学を終えて、秦始皇帝廟に向かう。 雨が降り、夕闇も迫り、薄暗い。
ザクロ売りの屋台が道に並んでいる。今が旬だ。中国人はザクロが好きで、種ごと食べるらしい。酒に漬けて胃腸や肺の薬にする、酸っぱいザクロの方が高級だという。

秦始皇帝廟は兵馬俑坑博物館の西1.5kmのところにある。
広い敷地内の道をひたすら歩く。秦始皇帝廟と赤い文字が彫られた大きな石が建っていて、記念撮影をしている家族がいた。
さらに10分程歩いて屋根のついた立派な記念碑まで行き、引き返す。
御陵は森の背後の小山にあるらしい。日本の古墳を見慣れた身には、想像を絶する大きさだ。

19:50 夕食。西安の有名店、徳発長にて餃子宴。
一口大の蒸し餃子が次から次へと運ばれてくる。中身に合わせて形もいろいろ工夫されていて可愛らしい。

21:40 ホテルに帰る。  いよいよ旅の終わり、 明日の出発に備えて荷物をつくる。

 

1026()   西安ホテル530 ⇒西安空港 8:00発(MU521) ⇒上海経由 ⇒ 成田16:35

 

モーニングコール 4:00 朝食はバスの中でお弁当 。
無事、飛行機は西安空港から飛び立ち、今回は3人横並びに座ったのでおしゃべりしながら機中を過ごした。上海乗換もスムーズで、時間があったので搭乗口近くでお茶を飲む。

飛行機が40分も遅れて成田に到着したので、あわただしいお別れになった。  旅も終了。 有意義かつ楽しい旅行でした。